NAKAMURA'S HISTORY
1906(明治39)年、現在の福岡市東区馬出で誕生した「中村組」。創業者・中村重吉は当時33歳だった。12歳で鳶の世界へ入り、職歴20年を超える頃には仕事への情熱と面倒見のよさから、チームの頭である「棒心」として仲間たちから信頼を集めていた。九州の建設業界トップの「岩崎組」に専属した中村組は、腕達者の職人たちが集まるプロフェッショナル集団と言われた。
文明開花を迎えた近代日本では、建設業が新時代の花形となった。重吉は職人からたたきあげの腕達者だったとすれば、これに対し二代目の中村五郎はホワイトカラーの技術者である。それまで腕一本だった中村組に、建設業界で通用する知識が蓄えられた。大手ゼネコンとの信頼関係を築いていくことで徐々に大規模な現場を任せられるようになった。
戦後の日本が大きく発展していく中で、土台を据え直そうとした中村組。思わぬ障害となったのが「親方は工事の請け負いはできない」というGHQからの命令である。親方は「労務提供」の職人派遣業である。賃金の中間でのピンハネがご法度となったのだ。企業へと進化が求められ、昭和22年に中村工業株式会社設立にいたった。
二代目・五郎の他界により、昭和45年9月に三代目・勝重が就任。当時30歳の若き青年社長を激励するため、関係者一同は誓書を贈った。この血判状はベテランの職人たちからの新社長へのエールであり、これからも共に歩んでもらいたいと願いを表したものである。その後、福岡銀行本店、岩田屋別館、天神センタービルなど今でも福岡市内のランドマークとなる大規模施設の建築が決まった。
近代化が進むにつれて中村工業と職人の関係は大きく変化した。従来の班制度を廃止し、「総合労務センター」を設立。職人とのネットワークを築くことで、他社では請け負うことのできない規模で受注ができるようになった。選りすぐりの職人たちは建築を通して、近代日本の発展に貢献してきた。創業から110余年経った今も、技能に生きる中村工業は建造物に生命を吹き込み、ニッポンの一部をつくっている。
CORPORATE DEVELOPMENT
1906明治39 | 中村重吉 鳶職「中村組」を創立(福岡市東区馬出) |
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1936昭和11 | 岩田屋本館新築工事(竹中工務店)竣工 |
1939昭和14 | 中村五郎が中村組代表就任(二代目) |
1947昭和22 | 中村興業株式会社を設立 |
1950昭和25 | 中村興業株式会社を改組、中村工業株式会社とする |
1952昭和27 | 世話人12人が発起人になり中栄会を結成 |
1955昭和30 | 九州土工鳶連合会結成、五郎社長初代会長となる |
1969昭和44 | 大卒者の適宜採用を開始 |
1970昭和45 | 中村勝重が代表取締役に就任(三代目) |
1976昭和51 | 創業70周年を記念し「鳶職三代誌」を発刊 |
1977昭和52 | 福岡市中央区舞鶴に新社屋を建設、移転 |
1980昭和55 | 高卒者の定期採用を開始 |
1981昭和56 | SMWの4軸オーガーマシーンを導入 |
1982昭和57 | 篠栗町に機材センターを開設 |
1992平成4 | 従業員同士のコミュニケーションを図る目的で「社内報」を発刊(創刊号) |
1993平成5 | 竹中品質管理賞(T賞)を受賞 |
1995平成7 | 独身寮 第二中栄寮を新築 |
2000平成12 | 土木工事部門をスタートさせる |
2002平成14 | リニューアル・改修工事部門をスタートさせる |
2003平成15 | 中村隆輔が代表取締役に就任(四代目) |
2005平成17 | 創業100周年を迎える。『創業100年誌』を発刊 |
2006平成18 | PC工事部門をスタートさせる |
2009平成21 | 富士教育訓練センターにおける社外専門研修をスタート |
2013平成25 | 東北復興事業への参画(土木課) |
社内報(Nakamura Network)第50号発刊 | |
2015平成27 | 創業110周年記念式典及び家族懇親会開催 |
中村隆元が代表取締役に就任(五代目) | |
メガソーラー事業部をスタートさせる | |
2019令和元 | 「中栄寮」増改修 |
2020令和2 | 長崎出張所 新築、移転 |
2022令和4 | 熊本出張所 新築 |
PC課 大手門別館 移転 |